2008年12月20日
実家に行って来ました。 そのついでに昔の宝箱をほじくり返して高校一年のとき撮った写真を掘り出しました。 下が岩見沢第一機関区で撮った写真。上はたぶん岩見沢駅か苫小牧駅の構内だと思います。 ※と書きましたが,上の写真はどこかの操車場かも知れません。なにぶん昔のことで思い出せなひ…(^^;;; 当時は、国鉄のSLの通常運行が最後の年、ということで「にわか鉄道ファン」になり、重たいカメラバッグと三脚をぶら下げてあちこちをかけずり回っていました。 あの頃からもう33年経つのかあ。(^^; ※重たくなるので写真は「追記」としました。
大阪の道産子
マグロとかけてSLと解く。ココロは真っ黒!?
2008-12-20 19:57
>あの頃からもう33年経つのかあ。(^^; 光陰ホワイトアローのごとし(ヨーデルさん風?)ボクは室蘭線沿線でしたので幼い頃 に寝床の中で聞いた(そんなに遅い時間では無かったと思いいます)「ふぉーーっ」と 言う汽笛が未だに記憶に残っています。関西はSLの退役が早かったので、若い子に 「ボクは大学一年まで地元にSLが走っていた」と言うと旧石器人を見るような目で 見られてしまいます(^▽^;) ※以下の記載は全て架空のものです、実在する団体・個人等とは何の関係もありません。 西 大伍「フーンッ北海道の開拓の歴史は石炭とSLの歴史でもあるんですね?」 曽田雄志「そうなんだ、でも沿線では吐き出す黒いススが白い洗濯物を汚すので主婦に とっては悩みの種で、当時の国鉄に対するクレームも多かったそうだよ」 西 大伍「いっそ白い服を諦めて赤い服ばっかりにしたらコンサ色になったのに」 藤田征也「アホッ!当時コンサは無いし、だいたい煤塵は点だから線にならないぞ」 中山元気「エーッオチAが『テンで話にならない』Bが『今は少しでも点が欲しい』だ」 西 大伍「元気センパイの契約更改はかなり厳しいみたいですね」
かもめ
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-20 22:23
○たさん、こんばんは。 上の写真はC-57ですか? 石炭を満載している点を考えると、途中駅の苫小牧ではなく、岩見沢か室蘭の可能性が高いと推測できます。 (苫小牧で石炭を補給したり、機関車を入れ替えることはない、そして、この時期はもう苫小牧始終発のSL列車はないとの前提) 室蘭でないなら、岩見沢ではないかといのが私の想像です。 オオドサの訂正をさせていただきます。 大学1年ではなく、2年のときまでSL走ってました。 大学1年生を2年間やってなければ(笑
大阪の道産子
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-20 23:04
>大学1年生を2年間やってなければ(笑 大学はなぜか5年も行ったので(3年の時に欧州に2ヵ月行ったのとTV局のバイトが災いしたので)計算が狂いました(^▽^;) 中山元気「オオドサの人生そのものだなァ」 西 大伍「契約更改の計算は狂ってませんか?」
○た
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-21 15:46
オオドサさん,どうも。(^^) >「ふぉーーっ」と言う汽笛が未だに記憶に残っています。 夜とか周りが静まり返ったときだと,線路からちょっと離れた場所でも汽笛の音が聞こえることがありますよね。あの音色は温かみのある寂しさがあってとても好きです。 「ふぉーーっ」は今でもときどき聞きますよ。(^^) 今ちょうど,札幌-小樽間でSLのイベント列車をやっているので。おとついの夕方は職場で,昨日の夕方は星置のビッグハウス(スーパーマーケット)の駐車場で聞きました。どちらも線路から直線距離で1km近く離れている場所です。 >大学はなぜか5年も行ったので(3年の時に欧州に >2ヵ月行ったのとTV局のバイトが ああ,そういえば以前に,ヨーロッパ留学(遊学?)のお話とTV局バイトのお話をされていましたものね。 私なんかはSLにハマった高校1年生のときはまるっきり勉強しなかったのであやうく留年しそうになりました。SLの現役期間がもう1年長かったら高校に4年間通ったかも知れません。(^^; かもめさん,どうも。(^^) >上の写真はC-57ですか? >石炭を満載している点を考えると、途中駅の苫小牧ではなく、 さすがはかもめさん。目の付け所がすごいです。 で,正解は,というとこれがよくわかりません。(^^; ですが,私は室蘭駅でSLの写真を撮ったことはないので,苫小牧でないとしたら岩見沢か栗山か紅葉山(現・新夕張)か,…。おそらく岩見沢駅かなあ…,というところです。SLの種類もC57でなくD51のような気がしますし。 今度実家に行く機会があったらまたこの写真(の現物)をじっくり見てみます。m(_ _)m >この時期はもう苫小牧始終発のSL列車はないとの前提 おっしゃる通りだと思います。私がSL写真を撮っていた時期には,旅客・貨物を含めて苫小牧始発・終発のSL列車は「SLダイヤ情報」(という雑誌)の時刻表にはなかったと記憶しています。(^^)
あ
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-21 17:09
すごいねえ!たいしたもんだ
しんのすけ
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-21 18:57
こんばんわ。 SL。懐かしいですね。 小生、SLの最終運行された沿線の田舎町で生まれ育った ので、毎日煙と蒸気を発しながら行き交う勇姿を眺めて いたものです。 あの煙の匂い、ナツカシス!
かもめ
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-21 19:16
皆さん、こんばんは。 しんのすけさんも室蘭線沿線のご出身なんですね。 私は(もちろん兄のオオドサも)栗沢出身で、私は高校1年のとき、SLで高校に通いました。 私のブログの今年1月と9月にSLの写真があるので、もしよかったらご笑覧下さい。 問題のSL写真ですが、たしかにボイラーが太いので、C-57ではなく、D-51のようですね。 C-57なら、ボイラーの上端が運転席の窓の上端くらいの高さですから。 それと、栗山ならこの時期(1975年当時)はヘルメットかぶった作業員がいる可能性は低いのではと思います。 追分なら沢山の作業員がいたでしょうけど、追分の可能性はありませんか。
○た
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-21 21:31
「あ」さん,どうも。(^^) ずっと前にもコメントいただきましたね。お久しぶりです。 コンサおひさるブログって,鉄っちゃんが多いようなのでこんなネタをアップしてみました。 私の場合は「にわかファン」でしたのであまり詳しくはないのですが,結構詳しい人がいっぱいいるみたいですね。(^^) しんのすけさん,お久しぶりです。(^^) >あの煙の匂い、ナツカシス! そうですか。私は手稲育ちなのですが,家のそばを走る線路(函館本線札幌-小樽間)では1972~1973年あたりにSLの運行はなくなってしまいました。昔はトンネルに入ったら皆一斉に窓を閉める,なんていうこともありましたね。:-) かもめさん,どうも。(^^) D51説。かもめさんの説明は説得力がありますね。(^^) >それと、栗山ならこの時期(1975年当時)はヘルメットかぶった作 >業員がいる可能性は低いのではと思います。 >追分なら沢山の作業員がいたでしょうけど、追分の可能性はありませんか。 はい,間違えました。(^^; そうですね。追分なら夕張線分岐駅ですし機関区もあったので作業員がたくさん居ますね。 上のレスで私が >>苫小牧でないとしたら岩見沢か栗山か紅葉山(現・新夕張)か,…。 と書いたうち,「栗山」は「追分」と書こうとしていたのを書き間違えたものです。 中山元気「オオドサ・かもめ兄弟の出身地に近づこうとした?」
かもめ
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-21 22:53
何度もすみません。資料を見てみました。 炭水車の台車は板バネに見えますが、そうであれば、やはりD51です。 C-57なら軸バネ式ですから。 なお、D-51でも初期のタイプ(なめくじ型)は軸バネ式なので、D-51の86番以降ということになりますね。
○た
へえーっ,それは知らなかった!(^^)
2008-12-22 13:01
かもめさん,さすが! >炭水車の台車は板バネに見えますが、そうであれば、やはりD51です。 >C-57なら軸バネ式ですから。 目の付け所がすごいですね。 >なお、D-51でも初期のタイプ(なめくじ型)は軸バネ式なので、 >D-51の86番以降ということになりますね。 これは知りませんでした! そうなんですか。初期型(ナメクジ)とそうでないのとは炭水車の台車のサスペンションも違ったのですね。いや~,すごいすごい。参りました。(^^)
かもめ
訂正
2008-12-22 23:08
何度も申し訳ありませんが、訂正があります。 C-57は201両製造されましたが、そのうち、139番から169番までの31両だけは炭水車の台車は板バネ式でした。 この時期は戦争の影響で、製造が簡単な方式(鋳造しないで済む方)を採用したようです。 ところで、室蘭線の機関区ですが、鷲別にもありましたね。今回の件とは関係ないけど、あそこにもたくさんSLありましたね。
○た
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-23 21:55
かもめさん,どうも。(^^) >何度も申し訳ありませんが、訂正があります。 大歓迎です。詳しい解説ありがとうございます。m(_ _)m >室蘭線の機関区ですが、鷲別にもありましたね。 そうでしたね。私がSL写真を撮るようになった頃はもうSLはなかったと思いますが,小中学校時代の同級生の中に昔鷲別に居た(親が国鉄)という人がいました。(^^) ※手稲には国鉄アパートがあったので(今もちょっとは残っている?)子供の頃の小学校の同級生には「親が国鉄」という人がたくさんいました。
大阪の道産子
岩見沢は石を投げたら教師と国鉄職員に当たると・・
2008-12-23 22:12
>子供の頃の小学校の同級生には「親が国鉄」という人がたくさんいました。 とっても切ない話で(他の方にはどうでも良い話)当時の栗沢駅には保線の方も いらしたのでは?と思います。なぜなら小5から中2まで好きだった佐藤尚美さん (実名)が国鉄の職員のお嬢さんで「私はそのうち親の職場が変わり転校するから」 と相手にされませんでした。 中山元気「ようするに嫌われていただけだなァ」
○た
Re:昔の写真( 非蹴球ねた)
2008-12-24 14:38
オオドサさん,どうも。(^^) 甘酸っぱい思い出話をご披露下さりありがとうございます。m(_ _)m 私が小学校に入った頃の手稲は宅地開発が急速に進んでいた頃でした。 もともと駅のそばに鉄道官舎(木造平屋)も数軒あったのですが,線路の北側に小学校ができ(私もそこに通いました)そのそばに国鉄アパートができました。最初は2棟だったと思いますが,毎年1棟,2棟と増やし,私が卒業する頃には十数棟にまで増えました(その間に公営住宅や団地も増えましたが)。毎年1学期のはじめとか2学期のはじめには必ず国鉄の子供が転校してきていました。 ※なので,入学したときの私の学年は2クラス(上級生は1クラス)でしたが,卒業するときには4クラスになっていました。これは当時の札幌ではよくある現象だったかも知れませんが,国鉄の子供が特に多いというのはちょっと特殊だったかも知れません。 >国鉄の職員のお嬢さんで「私はそのうち親の職場が変わり転校するから」と 転校というのは新しい出会いであると同時に必ず別れを伴うものですね。 私は転校を経験したことはありませんが,カミさんは親の仕事の関係で小学校で数回,中学・高校でも途中で転校したそうです。「もー,やった親しくなれたと思った頃に離ればなれになっちゃうんだよー」と言っていましたから,やはりそれなりに辛いことや悲しいこともあるのでしょうね。
プロフィール
○た と申します。携帯投稿のときは maruta というHNにしています。 時々「『○た』の『まる』はどう書くの?」というご質問をいただくことがありますが,「丸印の○(JIS:0x217b)」です(おそらく“○”の前後の文字によって ○ の大きさが違って見えることがあるせいで「これじゃない?」と不安になるのではと思います)。 1959/12/28生まれ,札幌育ち(大学時代は津軽)。札幌市西区在住。妻一人子なし。コンサの成長振りに一喜一憂する日々を送っています。 「金はあまり出せないが(スタジアムでは)大声を出す」が信条です。 リンクはご自由にどうぞ! コメントに対しては“来るもの拒まず”が身上なので私の意見と正反対のご意見でも尊重します。ただし,「通りすがり」のように立場や所在が不明な方からのコメントの場合,もしそれが不適切なコメントであると判断したときは(それを判断するのは私ですが)ブログ主権限でコメント主に無断で削除させていただきます。 亥B(笑)
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